宇宙は何色 tefutefu38

日々の暮らしの中で

 好きなものは好き


山桃 曖昧な視点


ヒーリングで、私が、ひとつの到達点のメドとしているのが
「欲しいものは欲しいといえるか」「好きなものは好きと言えるか」です。



これは、「イエスとノーをはっきりと言えるか」
と、同じ部類です。



私の例でいくと、BBを卒業するあたりまで !!
好き嫌いの表現ができませんでした。



「好きじゃない」「嫌いじゃない」の含みの中で曖昧に喋っていました。
物事を角立てたくない、という日本的な大人心ではありますが、




実際には、自分の感情を曖昧にしてしまい、本当に好きなものが
解らず、欲しいものが解らないという結果を招いていました。
結果的に、自分の感情に責任を取ってない事になります。




先日 友人が、プログを読んでくれていると言い
「みやこさんは、書くのがすきだよね」と言いました。




私は、この言葉にビックリしました。
「私が書くのが好き????」・・・・、動揺しました。




自分が「書くのが好き」だ、と思っても居なかった事に気がつきました。
どちらかというと、とても苦手な自分の意見を表現する練習としての
書く事・という苦行の位置づけだったからです。




自分にさえ「好きな事を好きな事」として認識せずに、曖昧にしていました。
そこには、自分の好きな事・物が他人に解ると 「馬鹿にされるのではないか」




「否定されるのではないか」「取られる・壊されるのではないか」
といった、「辱められるのでは?」という子供の意識の恐れが潜んでいます。




この例でいくと、私は書く事が好きと、思っていたとして、もし他者から
「書くのへただよね」とか「才能が無いよね」と言われたら、
とても耐えられない、宝物に傷がつく感じがするように感じるからです。




私の人格構造もありますが、自分の好きな物・という極めてパーソナルな事まで
前述の事を避ける為に、コントロールして、自分に隠そうとしています。




物事の起点になる「好き」がそうならば、それを楽しむ為に行動する事は
他人にばれてしまうのでもっとできなかったにちがいありません。



そして、隠しているうちに、好きだった事すら忘れてしまいます。



今は、こうして自分は何故そうなのかという「原因と結果」に気付けるので
いいのですが、この自分でつくった仕組みを無意識に生きていた頃は、



とても辛い人生だったな・と思います。なぜなら、本当に求めているものを
隠して忘れてしまい、望む人生に踏み出して行けないのですから。




皆さんは、どうでしょうか ?
自分に否定して認めてあげてない事って無いですか ?
自分から 取り上げてしまっている事 ありませんか?